白銀の器で愛でる
「あてなる涼」を、現代に。
『削り氷に
あまづら入れて
新しき金鋺 に
入れたる』
これは日本最古の随筆、『枕草子』の一節。削り氷とは、いまで言うかき氷のことだ。冷凍技術のない当時、夏の氷はとても貴重なもので、山深い氷室からはるばる都に運ばれたわずかばかりの天然氷に、甘葛(あまづら)と呼ばれるシロップをかけていただくことは、特権階級だけに許された特別な愉しみであった。かの清少納言は金鋺に盛られた削り氷を、上品さや優雅さの象徴として「あてなるもの」の段に綴っている。
透明にかがやく天然の氷。それを入れる“金鋺”は、錫の器だったと考えられている。熱伝導に優れた錫は、氷を入れると器自体に冷たさを湛え、指先にひんやりとした感触を伝える。また、銀面を薄っすらと覆っていくこまかな水滴は、辺りに冷ややかな空気を運ぶ。平安の貴族たちは、錫器の高貴さと涼感を慈しむように愛で、愉しんだ。
冷房など、物理的に涼しさを得られるようになった私たちは、こういった風情を感じる涼をいつの間にか忘れてしまったのかもしれない。
江戸時代に花開いた、
大阪の錫文化。
日本に錫器が伝わったのは、いまから約1300年前。中国から帰国した遣隋使によるものと言われている。当時、錫は金・銀と並ぶ貴重な金属で、宮中で使用される器や神事に用いる神具など京都を中心とする特権階級のあいだでのみで扱われるものだった。そして江戸時代になるとその敷居は幾分下がり、裕福な武士階級や商人たちに広まる。と同時に、公家のお抱えだった錫職人たちは京都から経済・物流の中心地である大阪に流れ込み、錫器の製造技術は大阪で発展していった。江戸時代には徳利や瓶子、お猪口といった酒を嗜むための器としての用途が多く、「昔は徳利のことを“すず”と言った」という文献も残されている。
江戸時代から明治期にかけては鉢・棗・茶壺など実に多彩な錫製品がつくられ、酒器以外にも豪華絢爛なもてなしの道具として使われるようになった。最盛期には大阪全体で300を超える職人たちが腕をふるっていたという。
ところが、大阪の一大産業にまで栄えた錫の製造は、第二次世界大戦を境に一変する。戦争が長期化して多くの職人が招集され、つくり手不足が深刻になったためだ。また、統制によって錫の入手が困難になったのも一因と言われている。
古の「京錫」の流れをくむ大阪錫器株式会社の代表、今井達昌さんは、祖母から聞いた当時の様子を語ってくれた。「昼間は軍需工場で働いて、晩に帰ってきてから錫器をつくっていたそうです。配給された錫はほんのちょっとしかなかったから、つくっては溶かして、またつくって…、売るんじゃなくて鍛錬のためにね。そうやって技術が途絶えないように守ってきたのです」。しかし、戦争が残した傷跡は大きく、工場の焼失や材料不足などにより、戦前50ほどもあったと言われる錫の製作所が、いまでは大阪錫器を含めて4社を残すのみとなっている。生産力の低下によって、錫器は私たちの暮らしの中から姿を消していったのだろう。
酒飲みの専有品から、
暮らしの器へ。
もちろん、現代の暮らしにおいても錫器は熱心に愛されている。錫器と聞いて思い浮かべるのは、日本酒を嗜むためのぐい呑やお猪口、きめ細かな泡が立つビアグラスといった酒器だろう。皿や花器などもつくられてはいるが、江戸時代からの流れもあってか、どこか「酒飲みの道具」といったイメージがあり、酒を嗜まない人にとっては縁遠い存在である。しかし、錫の良さは何も飲酒のためだけのものではない。涼やかな印象や、口当たりをまろやかにすると言われる特性は、暮らしの中でこそ、その存在感を発揮する。現代の暮らしに錫のもつ魅力を最大限に活かす道具をつくる。今回の商品開発プロジェクトはこうしてはじまった。
大阪の夏の涼を味わう、
専用の鋺をつくる。
大阪の伝統工芸でもある錫器を使って現代の夏の涼を愛でる。その核心となる飲み物と言えば何だろうか。真っ先に思いついたのが「冷コー」の愛称で親しまれるアイスコーヒー。ややベタな気もするが、器に口を当てると感じるほのかな冷気と芳醇な香りは、まさに夏の王道。誰もが愛する「冷コー」専用の器を錫器でつくれないか。そんな粋狂とも言える「冷香プロジェクト」に、前述の大阪錫器の代表、今井さんは高い技術力で応えてくれた。コーヒーの香りを逃さないよう、膨らみをもたせながらも、飲み口がワイングラスのように窄(すぼ)まったこだわりのフォルムは一見シンプルだが、職人の熟練の技が詰まっている。
ぐい呑やお猪口といった筒状の器はひとつの鋳型でつくることができるが、飲み口が窄(すぼ)まった器には、ふたつの鋳型が必要だ。上下別々の鋳型で整形した後、ろくろ挽きで削り、断面を熱したコテで数ミリ溶かしてつなぎ合わせる。接合部を感じさせないよう均一に仕上げるのは、錫を知り尽くした職人でも至難の業といえる。その難しさは「どんなに頑張っても1日に10個もつくれない」という話からも容易に想像できる。
しかし、だからこそつくる価値があると今井さんは話す。高度な技術が求められる分、職人には経験が蓄積され、その蓄積が新たな技術を生み出す。「伝統工芸は、止まったら終わり。時代の中で需要が見いだせないと伝統も技術もそこでお終い。長い歴史の中の“いま”を預かる人間として、技術を守り育てながら次につないでいくことが大切だと思っています」。
平安よりつながる「涼を愉しむ粋」には、意外にも錫の文化を守る人々の想いと挑戦があった。今年の夏は「冷香」で、古の貴人が愛でた「あてなる涼」を五感で味わってみてはいかがだろうか。
取材ご協力
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「大阪錫器株式会社」 今井達昌さん
1949年創業の「大阪錫器株式会社」3代目。代表取締役を務めると共に工芸士でもあり、2012年、卓越した技術者を国が表彰する「現代の名工」に選ばれた。同社は江戸時代後期、京都から大阪に普及した「京錫(きょうすず)」の流れをくみ、現在は伝統的工芸品「大阪浪華(なにわ)錫器」を製造する最大手。今井達昌さんを中心に伝統工芸士が7名、男女約20名の職人が在籍している。