「感性を砥ぐ」という文化を
未来につなぐ。
素材を慈しむ
日本料理では
包丁さばきの冴えが
味を決める。
まな板の上のさくに、曇りひとつない柳刃をあてがうと、約30cmもある刃渡り全体を使ってスーッと一気に、長く引く。切り終わりにトンという音がほとんど聞きとれないのは、包丁自体の重みにまかせ、料理人がほとんど力を入れていない証拠だ。そしてもう一度。深い呼吸と共に、同じ動作が繰り返される。体は置物のように一切動かず、ただ光る刃と腕だけが精密機械のように回転運動を続ける。大阪の繁華街、北新地で評判の日本料理店「うの和」を営む布谷さんの包丁使いは、カウンター越しに見惚れるほど美しい。
器に盛られた刺身の切断面を見てみると、きめの整った身が艶やかに光り、角はピンと立っている。さすがに一流の仕事だ。そして美しく切られた刺身は、旨い。常連のお客様の中には、この刺身を目当てにやって来る人も少なくないと言う。「生の魚を切っただけの刺身が、人を心から感動させる高度な料理に仕上がるのは、料理人の手際、そして包丁の切れ味によるところが大きいのです」と布谷さん。
大切なことは、素材にあらゆる負荷をかけず、細胞や繊維質を傷つけずにスパッと切断すること。素材を押しつぶし、組織を傷つければ身から水分が出て旨味が逃げ、同時に生臭さが香りを台無しにしてしまう。切れ味の落ちた包丁で刺身を引くのは、身を「ちぎっているようなもの」だとか。そのうえ荒い断面は醤油を余計に吸い、さらに味が損なわれるのだ。
そして切り方一つで味が変わるのは、生魚に限ったことではない。野菜も切断面が荒れるとそこから旨味が逃げ、水分が入って水っぽくなる。椀種なら切断面の荒れた食材には調味料が染み込みにくく、味が決まりにくい。だからこそ素材の持ち味を大切にする繊細な日本料理ではとくに、包丁を丁寧に研ぎ澄ませて扱うことが料理人の信条とされ、「研ぎの文化」が築き上げられてきた。そんな日本料理の本質をよく知る布谷さんは、若い頃から包丁研ぎに特別な天然砥石を使っている。
悠久のときが
もたらした
大自然の奇跡、
亀岡産天然砥石。
砥石に天然ものと人造ものがあることを知らない方も多いのではないだろうか。世の中に一般的に出回っている砥石は人造ものである。工業的に作り出された製品のため粒子が均一にできているのが特徴だ。これに対して天然砥石とは、自然の岩石を切り出して砥石として利用するもので、かつては日本全国の産地で採掘が行われていたが、安価な人造砥石が市場に出回るようになって以来、流通量が激減。現在の料理人で利用し続けている人はごくわずかと言われている。しかし、天然砥石には人造にはない魅力があり、根強い需要があるのも事実。とくに天然砥石の聖地といわれる京都府亀岡市で採掘された「仕上砥」は、料理人だけでなく、宮大工や刀剣研ぎ師など、極めて繊細な研ぎを求める人たちから、「これが手に入らなくなったら仕事ができない」と言われるほど重宝されている。
粒子が均一な人造ものよりも、粒子が不揃いの天然ものの方がよく研げるというのは不思議な気もするが、実際に研ぎ比べてみると誰もがその違いに驚く。人造砥石で包丁を研ぐと比較的早く「刃がつく」のだが、研磨力が強すぎるため、鋼材が傷つきやすく、バリ(刃返り)が出やすい。そしてまな板などとの接触ですぐに刃が落ちてしまう。つまり何度も繰り返し研ぎ直さなければならないのだ。
一方、亀岡産の天然砥石で研ぐと時間はかかるが、鋼材の柔らかい部分からわずかずつ研ぎ下していき、最終的には硬い部分が表面に出揃うためより強く、鋭利に仕上がり、刃は驚くほど長持ちする。この差はどこから来るのだろうか。ポイントは粒子の形状の違いにあるようだ。人造砥石の粒子は個々が角ばっているため研磨力が高いがガリガリと削る格好になり、天然砥石の粒子は楕円状で、しかも研ぎながらさらに砕けて細かくなっていくため、極めて優しく研磨できる。ここまで抵抗の少ない粒子は人工では到底再現することができず、またこのような研磨性能を備えた天然石は、日本だけでなく、世界においても他に類を見ない。
亀岡市で産出される天然仕上砥の成り立ちは、いまから2億5千万年前、太平洋赤道付近の深海底に1千年に1ミリメートルという気の遠くなるような時をかけて降り積もった火山灰や放散虫(海産プランクトンの一種)の遺骸などの堆積物が、地殻変動の圧力や花崗岩マグマの熱により変化し、海洋プレートの移動によって京都付近の地表まで運ばれてきたものとされている。石は、悠久のときがもたらした神秘といえるだろう。
最上のもてなしを
追求する感性を、
天然砥石と
共に未来へ。
非常に稀有な性質を持つ亀岡産の天然砥石だが、先に触れたように現在の市場における流通量はごくわずかだ。たしかにコストを考えれば、一点ものの天然砥石は高くつく。現代において、多くの料理人が安価な人造砥石を選択するのも無理のないことかもしれない。しかし、自分の店に足を運んでくれたお客様を、いま出せる精一杯の料理でおもてなししようとギリギリの挑戦を続ける料理人は試行錯誤の結果、天然砥石を選んでいる。自分の手にしっくりと馴染む包丁を愛し、いつまでも扱い続けたいと考える料理人は、包丁1本ずつの性質に合わせて天然砥石を選び、細心の注意を払って丁寧に砥いでいる。
「このくらいでいい」と妥協をせず、さらなる高みを目指す職人たちにとって、天然砥石はいまも欠かせない道具なのだ。もしこのまま天然砥石が衰退し、造り手がいなくなってしまえば、単に一つの道具の歴史が途絶えるというだけでなく、繊細な日本料理の文化まで一緒に失われてしまうのではないだろうか。
亀岡市で天然砥石の生産者として130年近い歴史を持つ砥取家。その代表である土橋氏は老舗の4代目として生まれ、その一生を砥石に捧げてきた方で、68歳を過ぎたいまでも険しい山を登り、採掘現場に入って天然砥石の採掘にあたっている。この地域で天然砥石を生産しているのは、いまや彼だけである。「天然砥石は人造ものと異なり、どんな刃物にも必ず合うというわけではありません。基本的には一つの刃物に対して相性の良いものを吟味して選ぶのが習わしです。また人造に比べて研磨力がやさしいため、砥ぎ手の技術や勘も重要になってきます。決して誰にでも扱いやすいわけではありませんが、その先に極めて奥の深い砥ぎの世界があることを多くの人に知ってもらえたら」と万感の想いを込めて語る。
先人たちは日本料理を突き詰めていく中で、研ぎの重要性に気づき、そこに極めて繊細かつ豊かな美意識を築き上げてきた。丁寧に刃物を砥ぐという行為を通じ、料理に向き合う自分の感性も研ぎ澄ませていくという日本の尊い文化を、この天然砥石と共に、次の人々にしっかりと受け継いでいかなければならない。
取材ご協力
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日本料理店 「うの和」 布谷浩二さん
大阪北新地の一角に佇む日本料理店「うの和」の料理長。かつての高級料亭、船場吉兆出身で、数々の名店で修行を重ね、2013年、2014年は北新地「ぬのや」でミシュラン1つ星を獲得。腕前は折り紙付き。旬の素材、お酒、器などにもこだわり、落ち着いた特上の時間でおもてなし。カウンター席では胸のすくような包丁捌きを目の前で堪能できる。
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天然砥石採掘「砥取家」 土橋要造さん
1877年に創業した採掘業「砥取家(ととりや)」の4代目。包丁や刀、大工道具などを研ぐために用いられる天然砥石を採掘・加工する職人は現在、全国でも数少なくなっており、天然砥石の聖地と呼ばれる京都府亀岡の市内でも土橋氏が唯一の砥石職人。40年以上この仕事に関わっており、採掘から加工まで全てを手がけている。